【研究成果】
日本の医療制度を事例に、患者の遺伝情報が例外的に開示される条件を検討
―医療制度の実態に即した基準構築の方向性を提示―

【本研究成果のポイント】

  1. 患者情報の例外的開示を可能にする条件が、特定の環境では機能しないことを指摘
  • 先行研究で提唱されている「例外的に医療従事者が患者情報を開示可能な条件」の内、情報の「有用性」(条件B)と「代替不可能性」(条件F)は、患者が生活している社会環境によっては両立しないことを指摘。 
 条件名内容
A特定可能性患者情報を開示しないことによって、リスクを負う当事者が特定可能であること
B有用性開示される情報が有用であること
C深刻性当事者が負うリスクが深刻であること
D無危害性情報の開示が患者に危害を及ぼさないこと
E緊急性当事者の負うリスクが差し迫っていること
F代替不可能性親族が患者情報の開示を除いて、他に情報をえる手段がないこと
G公益性

(暫定条件)

リスクが公衆衛生上の脅威であること

表1:例外的に医療従事者が患者情報を開示可能な条件(全条件の充足が必須)

 
  1. 日本の制度を例に、医療制度の実態に即した基準構築の方向性を提示
  • 日本では、遺伝学的検査、遺伝性疾患の予防、専門家による定期的な検診に適用される公的な保険が非常に限られている。たとえば、受精卵に特定の遺伝性疾患がないかを調べる「着床前遺伝子検査(PGT-M)*1」は、限られた疾患にのみ認められている。
  • そのため、遺伝性疾患の症状が現れていない人にとって、「遺伝性疾患に関する情報源が家族に限られ、予防治療を受けられる人は少ない」(条件Fは満たすが、条件Bは満たさない)という状況にある。
  • こうしたジレンマを踏まえ、6つの必須条件(A~F)すべてが満たされた場合ではなく、一定数の条件が満たされることで情報開示の検討を可能にする、より柔軟な基準の構築を推奨。

【概要】

  • 広島大学 学術・社会連携室未来共創科学研究本部共創科学基盤センターの飯塚理恵 特任助教は、広島大学大学院人間社会科学研究科上廣応用倫理学講座の澤井努 特定教授(寄附講座教授兼務、シンガポール国立大学客員教授)、ならびに同講座の石田柊 寄附講座助教とともに、マディソン・K・キルブライド(Madison K. Kilbride)が提唱した「患者情報の例外的開示を可能にする条件」に内在する限界を指摘し、日本の制度を例に実務上のジレンマが生じうることを示しました。
  • 本研究成果は、2025年9月18日に学術誌「The American Journal of Bioethics」でオンライン公開されました。

【論文情報】

  • 題目:When ethical principles conflict: The ethics of genetic confidentiality in context
  • 著者:Rie Iizuka1, Shu Ishida2, Tsutomu Sawai234*
  1. 広島大学 学術・社会連携室未来共創科学研究本部共創科学基盤センター
  2. 広島大学大学院人間社会科学研究科上廣応用倫理学講座
  3. 広島大学大学院人間社会科学研究科
  4. Centre for Biomedical Ethics, Yong Loo Lin School of Medicine, National University of Singapore, Singapore

      *: 責任著者

  • 雑誌:The American Journal of Bioethics
  • URL: https://doi.org/10.1080/15265161.2025.2543711
  • DOI:1080/15265161.2025.2543711

【背景】

  • 医療従事者は、患者本人の同意がある場合や、法で定められた場合を除き、患者の病状や個人情報を外部に漏洩してはならない法的義務を負っています。
  • 例外的に、患者本人や、親族の健康上のリスクに関わる情報を知る権利がある人々に対しては、情報を開示することが可能です。医療従事者や医療機関は、患者の個人情報保護と、情報を知る権利とのバランスをとりながら、慎重に情報を取り扱うことが求められています。
  • 従来、こうした例外的な情報開示をめぐる倫理的問題は、精神疾患や感染症を対象に議論がなされてきました。近年では、技術の進歩により、遺伝性疾患に関する情報を取得し、予防措置を取ることが可能になっています。そのため、血縁関係にある親族に対して、患者の同意なしに重篤な遺伝性疾患に関する情報を開示することの是非が議論されています。

【研究成果の内容】

  1. 遺伝情報開示の条件における「有用性」と「代替不可能性」の構造的ジレンマ
  • 医療従事者が患者の同意なしに遺伝情報を親族に開示することを例外的に許容するキルブライドのフレームワークは、6つの必須条件(A~F)のすべてが満たされた場合に限って開示を認めるものです。
  • 本研究では、思考実験を用いて、有用性(条件B)と代替不可能性(条件F)が、特定の社会環境下では両立しないことを指摘しました。
社会環境有用性(条件B)代替不可能性(条件F)

医療資源が豊富:

・公的保険が遺伝子検査をカバーしている。

・遺伝子検査の実施を各人に推奨

満たす。

→疾患の予防措置や遺伝子検査が広く利用可能で、患者の遺伝情報が親族の意思決定に有用。

満たさない。

→遺伝子検査の実施によって情報を取得可能。患者情報は親族の唯一の情報源ではない。

医療資源が乏しい:

・遺伝子検査は公的保険でカバーされていない。

・検査を実施している医療機関が少ない。

・疾患の予防策がない

満たさない。

→患者の遺伝情報を得られても、予防策がないため、親族の意思決定に対する影響は限定的。

満たす。

→遺伝情報の取得が困難であり、親族が唯一の情報源。

有用性(条件B)と代替不可能性(条件F)が両立しない社会

 

  • このように、一方の条件が満たされると他方の条件が満たされないという構造的なジレンマが存在するため、必須条件(A~F)すべてが満たされなければならないというルールは、倫理的に正当な患者情報の開示を排除してしまう可能性が高いことを示しました。

 

  1. 日本の制度を事例としたジレンマの提示
  • 現行の日本の医療制度や医療環境のもとで必須条件(A~F)すべてが満たされなければならないというルールを運用した場合、医療従事者が上記の構造的ジレンマに直面する可能性があります。
  • 遺伝性疾患をめぐる日本の医療制度は、次のような状況です。
  • 一部の例外を除いて、家族性腫瘍*2の遺伝学的検査、遺伝性疾患の予防、がん検査などの専門家による定期的な検診に対して公的な保険が適用されない。(将来の乳がんや卵巣がんなどの発症リスクを把握するための「BRCA1/2遺伝子検査*3」の検査料、検査によって「遺伝性乳がん卵巣がん(HBOC)」であると診断された場合のリスク低減手術は公的保険を認可)
  • 受精卵に特定の遺伝性疾患がないかを調べる「着床前遺伝子検査(PGT-M)」の実施も限られた疾患のみ認可。
  • こうした環境でキルブライドの厳格な基準を適用すると、患者が情報開示を拒否した場合、ほとんどのケースで秘密保持が優先されます。
日本の医療制度有用性(条件B)代替不可能性(条件F)

・公的保険でカバーされている遺伝性疾患は非常に限定的。

・着床前遺伝子検査(PGT-M)の利用は非常に限定的。

満たさない。

→患者の遺伝情報を得られても、予防医療を受けることができる疾患は限定的。

満たす。

→遺伝情報の取得が困難であり、親族が唯一の情報源。

表3:日本の医療制度における有用性(条件B)と代替不可能性(条件F)の充足状況

 

  1. 公益性を考慮した、より柔軟な基準の構築を推奨
  • 厳格な基準を形式的に運用し、ほとんどのケースで患者情報の機密保持を優先することは、医療従事者が公益性(暫定条件G)の検討を避け、遺伝リスクの情報を秘匿する環境を生み出す可能性があります。
  • 公益性と患者の個人情報保護の均衡を図るため、必須条件数を緩和し、患者情報の開示を医療従事者が検討する機会を設ける枠組みの構築を推奨しました。

【今後の展開】

  • 本論では、日本の医療制度の実態をもとに、実態に即した条件緩和の方向性を示すにとどまっており、具体的な議論を展開していません。基準の公正な運用を実行するためには、どの必須条件を、どのような理由で緩和するのかを具体的に議論していく必要があります。
  • 特定の必須条件をめぐる応答をもとに、必須条件そのものが更新される可能性もあります。たとえば、本論では、患者の遺伝情報の開示が現時点の居住地域において有用な場合に、「有用性」(条件B)を満たすと解釈しています。一方で、患者の居住地に関わらず、医療環境が整った環境において情報が有用な場合、「有用性」を満たすという解釈も提示されています。

【謝辞】

 本研究は、以下の支援により実施しました。

  • 日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事 基盤研究(B) 「現代社会におけるヒト発生研究の倫理基盤の構築」[24K00039] (代表者:澤井努)
  • 日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事 学術変革領域研究(B) 「ヒト培養技術を用いた「個人複製」の倫理学」[24H00813] (代表者:澤井努)
  • 上廣倫理財団論文投稿助成[UEHIRO2023-0127]

【参考資料】

【用語解説】

*1:着床前遺伝子検査(PGT-M)

妊娠前に体外で受精させた胚の染色体や遺伝子の検査を行い、病気を持たない可能性の高い胚だけを選択し、子宮に移植して育てる技術。妊娠後に検査を行う出生前診断とは異なり、現在日本で診断の対象となる患者は限られている。

PGT-Mは1つの遺伝子によって発病する、単一遺伝子疾患を防ぐ目的で行われる着床前診断。対象となる疾患は、次の重篤性の基準で評価されている。

 

「原則、成人に達する以前に日常生活を強く損なう症状が出現したり、生存が危ぶまれたりする状況になる疾患で、現時点でそれを回避するために有効な治療法がないか、あるいは高度かつ侵襲度の高い治療を行う必要のある状態」。

 

審査経験のない疾患申請の場合は、専門学会に依頼することが必須とされる。学会から提出される意見書には「PGT-M を希望するご夫婦の生活背景や置かれた立場・考えも考慮し判断を行った結果を示す。」とされている。

 

*2:家族性腫瘍

ある家系において、疾患の原因に関わらず、がん患者が多い場合を家族性腫瘍と呼ぶ。遺伝学的な検査を実施して、疾患の原因として病的な変異(病的バリアント)の影響が認められた場合、遺伝性腫瘍と呼ぶ。

2025年現在、日本で遺伝子検査や専門家による定期的で高度な検診に公的保険が認可されていない家族性/遺伝性腫瘍には、遺伝的な要因によって大腸がんや子宮内膜がんなどを発症しやすくなるリンチ症候群や、TP53遺伝子の変異によって家族内で様々な種類のがんが多発するリー・フラウメニ症候群などがある。

 

*3:BRCA1/2遺伝子検査

DNAの傷を修復して、細胞ががん化することを抑えるBRCA遺伝子の病的な変異(病的バリアント)を調べる検査。遺伝性のがんの一種である遺伝性乳がん卵巣がん(HBOC: Hereditary Breast and Ovarian Cancer)にみられるBRCA1またはBRCA2遺伝子の病的な変異は、性別を問わず親から子へ50%の確率で受け継がれるとされる。

2020年4月から、遺伝性乳がん卵巣がんの患者に対して、リスク低減手術や造影乳房MRI検査による定期的な検査が保険適用となった。

広島大学 大学院人間社会科学研究科

上廣応用倫理学講座

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東広島市鏡山1丁目7番1号 総合科学部A棟401号室

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