※本研究における不正アクセスとは、取得可能な「神経データ」に対し、適切なプロセスを経ずにアクセスすることを指します。たとえば特定の個人や団体、組織が、同意取得などを行わずに、身勝手に神経データにアクセス神経データにアクセスするなど、データを取得する段階でも「不正アクセス」が行われる可能性があります。
広島大学大学院人間社会科学研究科の片岡雅知 寄附講座准教授、石田柊 寄附講座助教、小林知恵 寄附講座助教、および澤井努 特定教授 兼 寄附講座教授(京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点 連携研究者)は、法学者とともに、ヒト脳オルガノイド研究における細胞提供者のプライバシー保護の問題を検討しました。
この問題に取り組むためには、ヒト脳オルガノイド研究によって収集されるデータがどのようなプライバシーのリスクを伴うかを整理する必要があります。そこで本研究では、「神経プライバシー」という概念を、①思考や記憶に関するプライバシー(精神的プライバシー)と、②脳疾患に関する情報のプライバシーに分けて分析しました。
提供された細胞から作られる脳オルガノイドから、細胞提供者の思考や記憶を読み取ることはできません。したがって、ヒト脳オルガノイド研究において精神的プライバシーに関する懸念はありません。一方で、一部のヒト脳オルガノイド研究では、脳疾患に関連する重要な情報を扱うことがあります。したがって、ヒト脳オルガノイドを作ることが細胞提供者の心をコピーするという誤解を解くと同時に、適切な情報管理が求められます。
本研究成果は、2024年9月20日に学術誌「Trends in Biotechnology」でオンライン公開されました。
近年の神経技術の急速な進歩により、こうした技術を用いて脳に関するデータを収集し、人の記憶や思考などを読み取ることができるのではないかという懸念が出てきています。こうした中でデータが不正にアクセスされたり、誤って使われたりしないように、「脳神経関連権」や「神経プライバシー」という新しい考え方が提案され、注目を集めています。これらの考え方は脳を対象とした基礎研究に影響を与えますが、人の幹細胞から作られた脳組織、つまり「脳オルガノイド」を用いた研究にはまだ適用されていません。
一方で、過去の研究では、ヒト脳オルガノイドは細胞提供者の記憶や思考を複製しているのではないかと不安を感じる人もいることが分かっています。このような不安に対応するためには、ヒト脳オルガノイド研究にどのようなプライバシーの問題があるかを整理する必要があります。
本論文では、最近注目されている「神経プライバシー」という考え方を、①思考や記憶に関するプライバシー(精神的プライバシー)と、②脳疾患に関する情報のプライバシーの2つに分け、それぞれがヒト脳オルガノイド研究とどのように関わるかを分析しました。
① 精神的プライバシーへの懸念
実際のところ、ヒト脳オルガノイド研究には精神的プライバシーに関する心配はありません。なぜなら、脳オルガノイドが細胞提供者の記憶や思考を複製することができないからです。まず、現在の脳オルガノイドは記憶や思考を処理するほど複雑な神経回路を再現できていません。また、たとえ将来、より複雑な脳オルガノイドを作れるようになったとしても、それが細胞提供者の脳をそのまま再現するわけではありません。同じ遺伝情報を持つiPS細胞を使用した場合でも、脳オルガノイドの発達の仕方は細胞提供者の脳とは全く異なるからです。
脳オルガノイドが細胞提供者の心をコピーするという誤解に基づいた議論は、将来的に医療分野での応用が期待されている脳オルガノイド研究の発展を妨げる可能性があります。今後は、このような誤解を解消するために、丁寧な科学コミュニケーションが重要です。
② 脳疾患に関する情報のプライバシーへの懸念
一方で、ヒト脳オルガノイド研究の一部では、脳疾患に関する重要な情報を扱うことがあります。例えば、脳の疾患を持つ人の細胞から脳オルガノイドを作り、その疾患のモデルを作製する研究が数多く行われています。このような研究では、疾患に関する情報が収集されるため、特に偏見を受けやすい疾患の場合、プライバシーに関する懸念が生じる可能性があります。
しかし、疾病に関する情報のプライバシーの問題は、脳オルガノイド研究だけに特有のものではありません。このような情報が研究機関などでどのように管理され、共有されるべきかについては、すでにさまざまな法律やガイドラインが定められています。情報技術の進歩や研究の拡大に伴い、既存のルールを見直す必要があるかもしれませんが、脳オルガノイド研究だけを特別に懸念する必要はないと考えられます。
本論文では、プライバシー保護の観点から、脳オルガノイド研究と神経プライバシーとの関係性を明らかにし、建設的な議論を進めるための論点を整理しました。
本研究で分析したプライバシーの問題は、試験管内で作製・利用されるヒト脳オルガノイドの研究を想定したものです。しかし、ヒト脳オルガノイドを他の人の組織や機械と組み合わせたり、動物に移植したりすることも可能であり、その場合には異なるプライバシーの問題が生じるかもしれません。また、本研究ではヒト脳オルガノイド研究に特有のプライバシーの問題はないと結論づけましたが、他にも権利の問題(ヒト脳オルガノイドの法的な位置づけや、細胞提供者からの同意取得に関する問題など)が議論されています。責任ある研究と技術開発を進めるためには、こうした問題について包括的でバランスの取れたルールを整えることが求められます。
本研究は、以下の支援により実施しました。
なお、本研究の実施に伴い、申告すべき利益相反はありません。
*1:神経技術(ニューロテクノロジー)
脳を含む神経系の活動を記録、調整、増強する技術の総称。脳の活動を記録する脳波計、脳の働きを画像で確認する磁気共鳴機能画像法(fMRI)、脳とコンピュータをつなげるブレイン・コンピュータ・インターフェース技術も含まれており、近年、技術が急速に進展している。
*2:脳神経関連権(ニューロライツ)と神経プライバシー
脳や神経活動を守るために近年提案された新しい権利のこと。その中の一つである「神経プライバシー」は、自身の脳神経に関するデータ、特に個人の思考や記憶を明らかにする可能性のあるデータに不正にアクセスされたり、誤って利用されたりしないようにする権利を指す。
*3:脳オルガノイド
多能性幹細胞などを培養して作られる立体的な脳組織のこと。多能性幹細胞とは自己増殖能(無限に増殖する能力)と多分化能(体を構成する全ての細胞に分化できる能力)を持つ細胞のことで、ES細胞(精子と卵子の受精後5〜7日が経過した胚盤胞から内部細胞塊を取り出して人工的に作られる)やiPS細胞(皮膚や血液など体細胞に複数の遺伝子を導入して人工的に作られる)がある。ES細胞を利用する場合は元となる受精卵の提供が必要であり、iPS細胞を利用する場合は元となる血液や皮膚の細胞の提供が必要である。