広島大学大学院人間社会科学研究科の片岡雅知 研究員、澤井努 准教授(京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点 連携研究者)、マードック・チルドレンズ研究所(オーストラリア)のクリストファー・ギンジェル研究員、シンガポール国立大学生命医学倫理センター長のジュリアン・サヴァレスキュ教授は、近年急速に発展するヒト脳オルガノイド研究に関する情報発信の在り方を批判的に検討しました。情報発信は誇張される傾向があり、それがさまざまな社会的課題をもたらしうることから、科学者、倫理学者、メディアに対して、より丁寧な情報発信を呼びかけました。
本研究成果は英国科学誌「Trends in Biotechnology」にて2023年3月22日付でオンライン公開されました。
近年、ヒトの多能性幹細胞(ES細胞やiPS細胞)から三次元の脳組織(ヒト脳オルガノイド)を作製する研究が急速に進んでいます。この研究は、ヒトの脳の発生過程や脳に関連する病気の理解を深めたり、創薬などの医療応用につながったりすることが期待されています。他方で、将来的にヒト脳オルガノイドが意識を持つのではないかといった懸念も指摘されています。こうした期待や懸念は、倫理学者の議論やメディアでの報道で取りあげられることが増えています。
しかし、科学者、倫理学者、メディアそれぞれの情報発信において、ヒト脳オルガノイド研究の成果を誇張する問題が生じています。情報発信における誇張はこれまでも幹細胞研究をめぐって、さまざまな社会的課題を引き起こしてきました。そこで本研究では、「ヒト脳オルガノイドが意識を持つ可能性」と「ヒト脳オルガノイド研究の医療応用」という二つのトピックに注目し、情報発信の在り方を批判的に検討しました。
ヒト脳オルガノイド研究について、ヒト脳オルガノイドが意識を持つ可能性が懸念されています。この懸念は重要な論点ですが、現在のヒト脳オルガノイドは未成熟であるため、当面は意識を持つことはないと考えられています(参照:2021年に発表された国際幹細胞学会[ISSCR]のガイドライン「幹細胞研究・臨床応用に関するガイドライン」 ※3)。
しかし、この懸念を過剰評価する言説がしばしば見られます。代表的な例は、脳オルガノイドを「ミニ脳」と表現し、脳オルガノイドを実際の脳のミニチュア版であるかのように描くものです。現在の脳オルガノイドは、脳の一部、それも発生のごく初期段階のものを、不完全に模倣したものにすぎません。そして当面の間、この状況は続くと考えられます。「ミニ脳」という不正確な表現には、科学者の側からも懸念する声があがっています。同様に、脳オルガノイドが光を「見る」など、それが既に意識を持つかのような言説も散見されます。これも、現在の脳オルガノイド研究の状況を無視し、その能力を誇張したものです(参照:2021年8月、英国一般科学誌「NewScientist」に掲載された記事「研究室で培養された小さな人間の脳は、光を「見る」目のような構造を持っている」)。
関連して、意識を持つヒト脳オルガノイドを作ることを「ルビコン川を渡る ※倫理的境界線を越えるの意」などと表現し、新しい倫理的課題であるかのように捉えることにも問題があります(参照:2019年11月、英国大手一般紙「The Guardian」に掲載された記事「科学者は人間の脳を成長させる際に「倫理的な一線を越えてしまっているかもしれない」)。というのも、科学において動物が研究利用される以上、意識を持つ存在者を作製し利用することは、決して新しい課題ではないからです。その意味でこうした言説は、ヒト脳オルガノイド研究が実際以上に懸念すべきものとして描くものです。これは、研究に対する社会不信を生むとともに、研究の過剰な規制をもたらすことで、研究の利益を損なう可能性があります。
意識の問題に比べて、医療応用をめぐる情報発信は比較的穏当と言えます。しかし、ヒト脳オルガノイド研究が対象にする疾患については誇張される傾向があります。現在のところ、病因解明や治療法開発においてヒト脳オルガノイドが有効な疾患は、脳の発生初期に原因があるものに限られており、多くの神経疾患・精神疾患については、ヒト脳オルガノイド研究から分かることは限定的です。そのため、例えばヒト脳オルガノイド研究が自閉症の原因を解明するかのような表現は誤解を招く不適切なものだと言えます(参照:2022年2月、米国一般雑誌「WIRED」に掲載された記事「遺伝子編集された脳オルガノイドが自閉症の秘密を解き明かす」)。
今後ヒト脳オルガノイド研究がより発展すれば、脳オルガノイドが対象にする疾患の種類は増えるかもしれません。しかし、成熟したヒト脳オルガノイドに伴う倫理的課題が生じるため、そうしたヒト脳オルガノイドを研究利用することは困難になります。こうした複雑さを無視し、成熟したヒト脳オルガノイドが様々な疾患の病因解明や治療法開発に役立つかのように喧伝することには問題があります。膨らんだ期待が実現されないことから、研究への社会的信用にも関わるからです。
ヒト脳オルガノイド研究には、人間の脳の理解や様々な医療応用が期待されています。他方で、ヒト脳オルガノイドが意識を持つ可能性を含む、様々な倫理的課題も指摘されています。こうした期待と懸念が表裏一体となっている研究をいかに進めていくべきかについて、今後さらなる社会的議論が必要になります。そうした議論を建設的なものにしていくために、科学者、倫理学者、メディアにはより丁寧な情報発信が求められます。
ヒト脳オルガノイド研究が社会にどのように受けとめられ、評価されるのかについて、現在十分な研究がありません。また、市民参加の重要性がしばしば指摘されているものの、実践には至っていません。今後は、より丁寧な情報発信を行うとともに、より積極的に社会の声を取り入れながら、ヒト脳オルガノイド研究を進めていく具体的な取り組みが重要になると思われます。
本研究は、以下の支援により実施しました。
なお、本研究の実施に伴い、申告すべき利益相反はありません。
※1 ES細胞
胚(人または動物の胎内にあれば、一つの個体に成長する可能性のあるもの)の発生において、受精後6、7日目の段階に当たる胚盤胞から(将来的に胎児、人へと成長する)内部細胞塊を取り出し、体外で培養することで作製される多能性幹細胞のこと。多能性幹細胞の特徴の一つに、人体を構成するほぼ全ての細胞へと形を変え、様々な機能をもつようになる(分化)という多分化能がある。
※2 iPS細胞
体細胞に特定の遺伝子を導入することで作製される多能性幹細胞のこと。
※3 国際幹細胞学会(ISSCR)
幹細胞研究振興、研究者育成、幹細胞の基礎・応用に関する情報発信を目的とする会員制の国際的な非営利独立組織(2002年〜)