【研究成果】ヒト脳オルガノイド研究とその応用に関する
倫理的・法的・社会的課題(ELSI)を包括的に整理

【本研究成果のポイント】

  • これまで、ヒト脳オルガノイド(Human Brain Organoid: 多能性幹細胞*1等から生体外で作られる立体的な脳組織、以下HBO)研究とその応用における倫理的課題の焦点は、HBOが意識を持つ可能性に集中していました。本研究では、動物への移植を含む多様なHBO研究のありかたや、コンピューティング分野*2を含む多様な応用可能性を幅広く検討することによって、意識の発生にとどまらない多様な課題を包括的に整理しました。
  • 具体的には、HBOを移植された動物の福祉、HBO研究が提起する多様な課題を見据えた法的規制のあり方、HBO研究に対する市民の懸念に応えるためのコミュニケーション上の課題などの、倫理的・法的・社会的課題(Ethical, legal, and social issues: ELSI)を包括的に検討しました。
  • 本研究で解明された課題に対応するためには、科学技術の進展や社会的影響を考慮した、国際的に調和の取れたガバナンス*3が必要です。そのためには、専門家による研究プロセスの評価のみならず、市民との対話を通じた社会的影響の評価も継続的に行われることが重要です。

【概要】

  • 広島大学大学院人間社会科学研究科上廣応用倫理学講座の片岡雅知 寄附講座准教授、ならびに同研究科の澤井努 特定教授(寄付講座教授兼務、京都大学 高等研究院ヒト生物学高等研究拠点 連携研究者、シンガポール国立大学客員教授)は、国内外の哲学者、法学者、倫理学者とともにHBOの研究とその応用に関するELSIを世界で初めて包括的に分類・整理しました。
  • これまでHBO研究やその応用が提起する課題に関する議論の中心は、HBOが意識を持つ可能性でした。それに対して本研究は、HBOの多様な利用法や、関連する法規制、また社会的文脈で生じる課題を包括的に評価することによって、現時点でHBO研究に提起されている多様なELSIを網羅的に検討し、整理した点に大きな特徴があります。
  • 本研究成果は、2024年12月19日に学術誌「European Journal of Cell Biology」でオンライン公開されました。

【論文情報】

  • 題目:Beyond Consciousness: Ethical, Legal, and Social Issues in Human Brain Organoid Research and Application
  • 著者:Masanori Kataoka1, Takuya Niikawa2, Naoya Nagaishi3, Tsung-Ling Lee4, Alexandre Erler5, Julian Savulescu6,7,8,  Tsutomu Sawai1,6,9,10*
    1. 広島大学大学院人間社会科学研究科上廣応用倫理学講座
    2. 神戸大学大学院人文学研究科文学部
    3. 東京大学大学院情報学環・学際情報学府
    4. Graduate Institute of Health and Biotechnology Law, Taipei Medical University, Taipei
    5. Institute of Philosophy of Mind and Cognition, National Yang Ming Chiao Tung University
    6. Centre for Biomedical Ethics, Yong Loo Lin School of Medicine, National University of Singapore
    7. Oxford Uehiro Centre for Practical Ethics, Faculty of Philosophy, University of Oxford
    8. Biomedical Ethics Research Group, Murdoch Children’s Research Institute, Australia; Melbourne Law School, The University of Melbourne
    9. 広島大学大学院人間社会科学研究科
    10. 京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)
    *: 責任著者
  • 雑誌:European Journal of Cell Biology
  • URL:https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0171933524000876
  • DOI:https://doi.org/10.1016/j.ejcb.2024.151470

【背景】

  • ヒトの脳の発生過程の解明や、脳に関連する疾患の解明、創薬・治療法の開発を目的として、HBO研究が急速に進展しています。HBO研究の領域は、HBOを体外で作製するだけにとどまらず、動物への移植、機械への接続など多岐にわたっています。
  • このような背景のもと、澤井努特定教授らの研究チームは、これまでHBO研究の提起する倫理的課題 [参考資料1]、法的課題 [参考資料2]、社会的課題 [参考資料3]を整理・検討し、議論を深めてきました。
  • 本稿では、これまでの議論をアップデートしながら、HBO研究やその応用が提起するELSIを包括的に整理しました。

【研究成果の内容】

倫理的課題
①意識の可能性に関する議論

  • 脳オルガノイドが意識を持つ可能性は、倫理学者によって最も議論されてきたトピックの1つです。しかし、多くの科学者は、現在の技術ではHBOが意識を持つ可能性は極めて低いと結論付けています。そのため、HBOの意識が提起する課題は重要ではあるものの、喫緊の課題ではありません。
  • ただし、将来的にHBOの作製技術が向上することで、HBOに意識が芽生えることはあるかもしれません。この可能性に備え、HBOの意識や能力を評価する手法の確立、意識の道徳的意義の検討、動物実験に用いられるガイドラインとの整合性の検討といった、事前の準備を進めていく必要があります。

②動物福祉の課題

  • HBOを動物に移植する研究では、移植されたHBOが動物の認知能力や感覚に与える影響が新たな倫理的課題となっています。例えば、HBOを移植された動物の感覚や感情のありかたが変化する場合、それに即した福祉基準を策定する必要があります。
  • また、HBOの元となる細胞提供者の中には、ヒトの細胞を動物に移植する実験に対して、懸念を抱く人々がいることが知られています。このような実験を行う際には、細胞提供者のプライバシーを保護するのみならず、細胞の使用方法や個別の実験プロセスに関する情報提供を行い、望まない形で細胞が使用されることを避ける必要があります。
  • このように、実験動物の福祉の観点、および市民の視点の反映という観点の両面から、HBOを移植した動物に生じる生理的・認知的影響を適切に評価することが求められます。

法的課題
①HBO研究固有のガバナンスの必要性

  • 現在、HBOは高度な感覚や認知能力を持つほど複雑化していないため、HBO研究に特化した規制枠組みを制定している国・地域はありません。
  • しかし、HBO研究に対する倫理的懸念は、HBOの有する能力を超えて、動物の福祉やHBOに対する市民の認識など、広範な領域に及んでいます。このような点も考慮したうえで、HBO研究に特化した規制枠組みの必要性を検討する必要があります。
  • また、HBO研究は特定の国や地域を越えた共同研究が盛んな分野であるため、国際的な規制の調和が欠かせず、グローバルな視点からHBO研究に関する指針を策定しなければなりません。

②HBOの福祉の法的保護と、HBOの法的地位

  • 多くの国では、①動物の福祉の保護、②動物の苦しみに対する市民の感受性の保護という2つの目的で、動物の福祉が法的に保護されています。
  • このような法的論理が、将来的にHBOが原始的な意識を獲得した場合にも適用できるかどうか、事前に検討しておくことが重要です。そのためにはHBOの性質を適切に評価し、HBOに対する市民の感受性を把握する必要があります。
  • こうした課題は、HBOの法的地位とも関連しています。現在、HBOの法的地位はモノ(財)ですが、HBOの性質や人々のHBOに対する認識によっては、法的な意味での人格が付与される可能性もあります。
  • また、生殖技術や医療技術の進展に伴って、法的な意味での人格に関する従来の法解釈が揺らいでいます。新たな解釈が、HBOの法的地位に影響を与える可能性もあります。

③HBOの所有権や特許

  • 細胞提供者の中には、自身の細胞から作製されたHBOに特別なつながりを感じる人がいることがわかっています。こうした感覚は、HBOを誰が所有すべきかという所有権の問題を複雑化させる可能性があります。また、HBO研究から得られた利益を細胞提供者に還元すべきだという提案もなされています。
  • 関連して、HBOの特許をめぐる状況は複雑です。HBOの性質や、国・地域に応じて、特許が認められるか否かが大きく異なる状況が生じています。

社会的課題
①研究に対する誤解や、誇張された情報発信

  • HBOが「人間の脳のミニチュア版である」または「すでに意識を持つ」といった誤解が広がることで、社会的混乱が生じる可能性があります。
  • 倫理的課題の過度な強調を避け、HBOが提起する課題を正確に伝える必要があります。正確な情報発信はHBO研究の透明性を確保し、信頼を高める上で重要です。

②市民参加と社会的信頼

  • HBO研究に対する社会的な信頼を高めるためには、透明性の確保と市民の価値観を反映した政策形成が必要です。市民参加型の議論を通じて、科学コミュニケーションで発生する齟齬を修正するとともに、研究の方向性や倫理的基準を社会全体で共有することが求められます。

③技術応用と責任分担

  • HBOを用いた技術が医療や非医療の分野で応用される場合、研究者、企業、市民の責任分担を明確化し、公正な利益配分を実現する仕組みが求められます。
  • 軍事利用や、差別を生み出したり、助長したりするような技術応用など、技術の誤用を防ぐための規制や監視体制の強化も必要です。

【今後の展開】

  • HBO研究の倫理的枠組みを開発し、科学的探求と倫理的責任の均衡を保ち、責任ある研究開発を行うことが重要です。
  • 従来、HBO研究の倫理的課題に関する議論と比較して、法的課題に関する議論が少なく、後者に関してはさらなる検討が求められます。
  • 科学の進展と社会的価値観の間にある齟齬を特定し、その齟齬を埋めるためには、倫理学者、法学者、科学者といった専門家と市民による継続的な対話が重要です。適切な科学コミュニケーションを実施し、市民の信頼を獲得するとともに、十分な情報に基づいた意思決定を促進することが求められます。
  • 広島大学 上廣応用倫理学講座では、HBO研究を含む様々な先端科学技術のELSIに引き続き取り組み、責任ある研究開発の推進に寄与していきます。

【謝辞】

本研究は、以下の支援により実施しました。

  • 日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事 基盤研究(B) 「現代社会におけるヒト発生研究の倫理基盤の構築」[24K00039] (代表者:澤井努)
  • 日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事 学術変革領域研究(B) 「ヒト培養技術を用いた「個人複製」の倫理学」[24H00813] (代表者:澤井努)
  • 日本医療研究開発機構(AMED)令和6年度「脳とこころの研究推進プログラム(精神・神経疾患メカニズム解明プロジェクト)「ヒト脳オルガノイド研究に伴う倫理的・法的・社会的課題に関する研究」[JP24wm0425021](代表者:澤井努)
  • 科学技術振興機構(JST)社会技術研究開発センター(RISTEX)科学技術の倫理的・法制度的・社会的課題への包括的実践研究開発プログラム(RInCA)「ヒト脳改変の未来に向けた実験倫理学的ELSI研究方法論の開発」[JPMJRS22J4](代表者:太田紘史、分担者:澤井努)
  • 上廣倫理財団論文投稿助成[UEHIRO2023-0116]
  • Brocher Foundation
  • シンガポール保健省 国立医学研究会議 NMRC Project [MOH-000951]

【参考資料】

参考資料1:【ニュース】脳オルガノイドの研究と臨床応用での倫理問題を体系化
https://ashbi.kyoto-u.ac.jp/ja/news/20210326_research-result_sawai/
参考資料2:【研究成果】脳オルガノイドの研究とその応用に関する法的問題を体系化 ―国際的な法的枠組みへ第一歩―
https://www.hiroshima-u.ac.jp/news/84976
参考資料3:【研究成果】体外で作製されるヒト脳組織(ヒト脳オルガノイド)について、正確な情報発信の必要性を指摘
https://www.hiroshima-u.ac.jp/news/76123

【用語解説】

*1:多能性幹細胞
自己増殖能(無限に増殖する能力)と多分化能(体を構成する全ての細胞に分化できる能力)を持つ細胞。ES細胞(精子と卵子の受精後5〜7日が経過した胚盤胞から内部細胞塊を取り出して人工的に作られる)やiPS細胞(皮膚や血液の細胞に複数の遺伝子を導入して人工的に作られる)がある。

*2:コンピューティング分野でのHBO利用
近年、適切な刺激を与えて訓練したHBOに、単純なゲームなどのごく簡単な課題を行わせる研究が相次いで発表されている。生物の脳は機械よりもはるかに小さなエネルギーで多くの計算を行うことができるため、このような研究が次世代の高性能なコンピュータの開発につながるのではないかと期待されている。

*3:科学技術ガバナンス
科学技術を管理運営する仕組みのこと。個々の科学者・技術者だけでなく、地域社会の市民から政策決定者、各種学会、国際機関まで、様々な人物・組織によって担われる。
現在のところHBO研究に特化したガバナンス体制をもつ国・地域は存在しないが、HBO研究を含む幹細胞研究分野では、国際幹細胞学会(International Society for Stem Cell Research)の制定するガイドラインが大きな役割を果たしており、各国の研究はおおむねこれに従う形で進められている。

広島大学 大学院人間社会科学研究科

上廣応用倫理学講座

〒739-8521

東広島市鏡山1丁目7番1号 総合科学部A棟401号室

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