広島大学大学院人間社会科学研究科の片岡雅知 研究員、澤井努 准教授(京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)連携研究者)、台北医学大学医療及生物科技法律研究所のTsung-Ling Lee 准教授は、ヒト脳オルガノイド研究の発展を踏まえ、ヒト脳オルガノイドが法律上、「人」に該当する可能性について検討しました。法律上の「人」は通常、人間(「自然人」)と「法人」に分類されますが、本研究では、将来的にヒト脳オルガノイドはこの両方に分類されうると指摘しました。
本研究は米国の法律雑誌「Journal of Law and the Biosciences」にて、2023年4月3日付で公開されました。
近年、ヒトの多能性幹細胞(ES細胞やiPS細胞)から立体的な組織(オルガノイド)を作製する研究が進展しています。その中でも、ヒトの多能性幹細胞から立体的な脳組織(ヒト脳オルガノイド)を作製する研究は、ヒトの脳の発生過程や病気の解明、また創薬などへの応用が期待され、大きな注目を集めています。他方で、ヒト脳オルガノイドを用いた研究には、様々な倫理的課題や法的課題が生じることが予想されます。しかし、これまで法的課題はほとんど争点になってきませんでした。
通常、この世界における多くのものが法的に「人」か「物」かに分類されます。現状、ヒト脳オルガノイドは「物」として扱われていますが、将来的にヒト脳オルガノイドが意識を持つ可能性が指摘されていることから見ても、それをこれまで通り「物」と見なしてよいのかどうかは自明ではありません。本研究では、ヒト脳オルガノイド研究や関連する科学技術の動向、また法律上の「人」についての各種理論や判例を基にしながら、ヒト脳オルガノイドの法的な地位について検討を行いました。
本研究ではまず、ヒト脳オルガノイドが私たちのような人間(「自然人」)に該当しうるのかどうかを検討しました。現在、多くの国が自然人の死を脳死によって定義しています。そのため以前から、脳活動を示す限りにおいて、ヒト脳オルガノイドも自然人と見なせるのではないかという見解が示されていました。しかしこの見解は、2つの理由で否定されています。一つは、脳死とは脳の「全身を統合する活動」が停止することを指しており、現在作製されているヒト脳オルガノイドはそうした複雑で高度な能力を持たないという理由、もう一つは(より重要ですが)、ヒト脳オルガノイドはそもそも法的に「出生」していないという理由です。「出生」は胎児が母体から出てくることと定義されるため、体外で作製された組織はどれほど成熟したとしても出生したことになりません。
しかし、この二つの理由は必ずしも決定的ではありません。まず、脳が統合する必要のある「全身」はそこまで複雑な身体とは限りません。一部の国では、心拍などごく基本的な生命機能があれば自然人の身体として認められています。ヒト脳オルガノイドをその他の組織と結合させる研究が急速に進んでいることも踏まえると、近い将来、ヒト脳オルガノイドがごく基本的な「全身」を統合する能力を持つ可能性があります。
また、胎児が母体から出てくることをもって出生とする定義についても、近年の医療技術の発達によって再考が迫られています。例えば、胎児外科において現在、未熟な胎児をいったん母胎から取り出し、医療的処置(腫瘍の摘出など)を施した上で、再び母胎に戻すことが可能になっています。現行の出生の定義では、胎児を母胎から一旦取り出した時点で出生したことになってしまうために、既に混乱が生じています。今後、人工子宮技術が実現した場合にも同様の問題が生じえます。この問題に対処するために、出生の定義から「母体から出る」という条件を外すことも考えられますが、それはヒト脳オルガノイドが「出生」する可能性を開くことにもなります。
これらの点は、将来のヒト脳オルガノイドや法規制に関わるもので、現状の脳オルガノイドが自然人に該当することはないと考えられます。しかし、ヒト脳オルガノイドが自然人と見なせるかどうかという点を真剣に検討すべき重要な理由があります。それは、ヒト脳オルガノイドを作製するためにはES細胞やiPS細胞など多能性幹細胞(そして、その細胞を作るために細胞を提供してくれた細胞提供者)が必要になるため、ヒト脳オルガノイドが自然人と見なせる場合、その作製は細胞提供者と遺伝的に同一の存在、すなわち、クローンを作製することになるからです。人でクローンを作製することは、人間の尊厳という基本的な価値にも関わり、日本を含む多くの国で厳しく禁止されています。意図せず人のクローンを作製してしまうという事態を回避するために、上記の点を法的に検討しておくことが必要です。
本研究では次いで、ヒト脳オルガノイドが会社のような「法人」に該当しうるのかどうかを検討しました。従来、この可能性は全く考慮されていなかったため、本研究ではそもそも法人とは何かという問題を整理するところから始めました。法人に関する理論の中でも、法人は私たちのような人間同士の法的関係を象徴するものだという理論によれば、ヒト脳オルガノイドが法人と見なされることはありません。しかし、法人は対象の持つ特徴によって決まるという理論や、法人は法律によって作られるという理論によれば、ヒト脳オルガノイドが法人と見なされる可能性は否定できません。
この点を踏まえ本研究では、いくつかの判例や議論に基づいて、ヒト脳オルガノイドを法人と見なす積極的な理由があるのかどうかを考察しました。例えば、近年、動物の福祉を保護するために、動物を法人と見なす判例が出ています。今後、痛みを感じるヒト脳オルガノイドが作製された場合、福祉の主体である動物を法人と見なすように、ヒト脳オルガノイドを法人と見なすという議論が出てくるかもしれません。また一部の国では、自然、例えば川が法人と見なされることがあります。ここでは、法人と見なされている川が、単なる物ではなく特別な存在だとする社会的な価値観・世界観が反映されています。同様に、今後、社会がヒト脳オルガノイドに特別な価値を認めるのであれば、それを法人と見なす可能性が一切ないとは言えません。
さらに近年、損害の賠償や創作物の保護を目的に、AIを法人と見なすべきだという議論が起こっています。現在、AIを法人と見なす国はありませんが、AIは急速に発展しています。今後、AIに関する法的議論が待たれるところですが、ヒト脳オルガノイドを用いたバイオコンピューティング(生物に由来する素材を用いた演算)技術の開発も進んでいることから、AIでの法的議論はヒト脳オルガノイド研究にも影響を及ぼすかもしれません。
本研究では、現状のヒト脳オルガノイドは自然人、法人のいずれとも見なされないものの、将来的には両者ともに見なされうることを指摘しました。もっとも、本研究は問題提起の色が強く、今後、各国・地域の法に基づくより具体的な検討が必要です。
また、本研究の重要な点の一つは、ヒト脳オルガノイドを法的に人と見なすかどうかは、ヒト脳オルガノイド研究の進展のみによって決まらないということです。私たちが胚、胎児、動物、自然、AIをどう法的に位置づけるか、胎児外科や人工子宮のような医療技術やバイオコンピューティング技術が発展することで生じる法的課題にどう対処するか、また社会が体外で作製されたヒト脳オルガノイドをどういう存在と見なすのか、これらの点がヒト脳オルガノイドを法的に「人」と見なすかどうかという問題に関わってきます。
ヒト脳オルガノイド研究は、基礎研究から医療応用まで期待の大きな研究分野の一つです。この研究を適切な形で進めていくために、ヒト脳オルガノイド研究の在り方について、法的課題の検討も含めた社会的な議論が重要だと考えられます。
本研究は、以下の支援により実施しました。
※1 ES細胞
胚(人または動物の胎内にあれば、一つの個体に成長する可能性のあるもの)の発生において、受精後6、7日目の段階に当たる胚盤胞から(将来的に胎児、人へと成長する)内部細胞塊を取り出し、体外で培養することで作製される多能性幹細胞のこと。多能性幹細胞の特徴の一つに、人体を構成するほぼ全ての細胞へと形を変え、様々な機能をもつようになる(分化)という多分化能がある。
※2 iPS細胞
体細胞に特定の遺伝子を導入することで作製される多能性幹細胞のこと。